坂本龍馬脱藩の道をたどる【4】

梼原町の各所にある茶堂

脱藩の道の傍らには八重桜が咲いていた

梼原町指定文化財の三嶋神社
津野山郷の開祖・津野経高が延喜19年(919)伊豆より三嶋大明神を勧請(かんじょう)したといわれる

土佐と伊予との国境・韮が峠


 『坂本龍馬 脱藩の道を探る』(村上恒夫著)によると、龍馬と澤村惣之丞の脱藩の記録は、『覚・関雄之助口供之事』という文書に残されている。関雄之助とは澤村惣之丞の変名で、その口述の記録を龍馬の義兄・高松順蔵が写したものが保存されていた。

 那須俊平の案内で梼原を出発した龍馬らの一行は、宮野々の関を抜け、国境の韮ヶ峠に向かった。峠で同行していた信吾が引き返した。その後、泉ヶ峠で一泊し、肱川沿いの宿間に達した。宿間で俊平と別れ、龍馬と惣之丞は船に乗って長浜まで下っている。途中の大洲に寄ったかどうかは不明である。大洲は「伊予の小京都」といわれ、今も残る古い街並みが美しい。

 龍馬と惣之丞は馬関(現在の下関市)までは同行していたが、その後別行動をとった。龍馬は河田小龍から聞いていた薩摩の製鉄所を見学するため薩摩入国を図るが、浪士を排斥する藩の方針により国境で拒否された。やむなく龍馬は大坂に向かい、6月に到着した。大坂では惣之丞と会って京都の情勢を聞いている(『維新土佐勤王史』)。

 京都では4月23日に寺田屋事件があり、薩摩藩の尊攘派志士が粛清された。

 龍馬の脱藩に影響を与えたといわれる吉村虎太郎はどうしていたのか。虎太郎は、脱藩する際も偽の鑑札をかざし、馬に乗ったまま宮野々の関を堂々と通り抜けたというつわものである。東洋暗殺の日の4月8日、越後の浪人本間精一郎を連れて臆面もなく大坂の土佐藩邸に現れ、薩長の動きに後れをとらないよう挙兵を訴えた。突然現れた脱藩浪士の扇動が受け入れられるはずもないが、誰もが呆気に取られて捕まえることすら忘れていた。しかし寺田屋事件の翌日、様子を見に伏見の薩摩藩邸にノコノコと出向いたところ、そのまま邸内に閉じ込められ、土佐藩に引き渡されて国に送還されている。

 こうした話を聞いた龍馬は、京都での活動は危ういと感じたのか、8月には江戸に入り、千葉常吉道場に寄宿した。そして12月に人生最高の師と出会う。龍馬の自分探しの旅はここで終わり、歴史を動かす大仕事が始まる。

 文久3年3月、脱藩後初めて龍馬は乙女姉さんに手紙を書いた。

 「さてもさても人間の一世(ひとよ)はがてんの行かぬは元よりの事、運のわるいものは風呂より出でんとしてきんたまをつめわりて死ぬるものもあり、それとくらべて私などは運がつよく、なにほど死ぬる場へ出ても死なれず…今にては日本第一の人物勝麟太郎と云ふ人の弟子になり、日々かねて思付所を精といたしおり申候…」

 乙女姉さんは大笑いしたことだろう。

大洲城の天守閣

伊予の小京都といわれる大洲の街並み

大洲城天守閣からの眺め。龍馬らは肱川を下り長浜から船で三田尻(現在の防府市)に向かった