坂本龍馬脱藩の道をたどる【1】

平成22年4月22〜24日
『龍馬が打つ』プロデューサー 合田 温

桂浜の坂本龍馬像

 坂本龍馬は文久2年(1862年)3月24日に脱藩している。新暦に直すと4月22日である。同じ時期に、龍馬が脱藩した道をたどって、龍馬をはじめ幕末の志士たちの姿をしのんでみることにした。

小雨にけむる桂浜

 そもそも龍馬はなぜ脱藩したのかは謎である。半年前、土佐勤王党の血盟書に9番目の署名をして、地元土佐では最初の勤王党同志になったばかりの龍馬が、突然脱藩した理由はなんだったのか。

 龍馬が脱藩する少し前の3月7日に、同じ土佐勤王党の吉村虎太郎が脱藩した。龍馬も吉村虎太郎も、武市半平太の命を受けて、長州の尊王攘夷派の若き指導者、久坂玄瑞と会談しているのは共通している。

 龍馬が久坂から持ち帰った武市宛ての返書には、「諸候恃(たの)むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽(そうもう)志士糾合義挙の外にはとても策これ無き事、尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」、つまり「もはや諸侯も公家も頼りにならない。大義のためにはお互いの藩など滅亡しても良いから、志士を集めて決起しよう」と書かれていた。

 久坂は、師の吉田松陰が唱えた草莽崛起(そうもうくっき=在野の志士による決起)という思想を、「藩など滅んでもいい」という、より過激なかたちで呼びかけたのである。同じ頃、薩摩では島津久光が大軍を率いて江戸に向かおうとしていた。これを倒幕の動きとみた久坂にすれば、自分たちも後れをとってはならないという、焦りに近い思いがあったのではないか。

高知城

上町にある「坂本龍馬生誕の地」碑

 しかし、一藩勤王を信条とする武市半平太は、久坂の誘いに乗って脱藩するような考えは毛頭なく、目の上のこぶである公武合体派の参政、吉田東洋を排除することを決意する。龍馬は、もし事前に計画を知らされていなかったとしても、不穏な空気は十分察していたはずである。

 そのような切迫した時期に、土佐を一度脱藩した澤村惣之丞が戻ってきて、行動を共にしてくれる同志を探していた。

 龍馬は、一藩勤王に固執し、テロリズムに傾く武市にはついていけず、澤村の誘いを「渡りに船」とばかりに受け入れたのではないだろうか。

 司馬遼太郎は『竜馬がゆく』の中で、脱藩前の龍馬と武市のやりとりを巧みに描いている。



「武市、聞け。もし暗殺、政変が成功したとしても」
「おう」
「江戸の老公が、そりゃいかんぞ、と騒げばどうするんじゃ。そのときは老公に、矢や鉄砲玉をあびせる覚悟があるのか」
「ばか、不敬な。成功後は、おれはただちに江戸へ走って老公を説得するわい」
「お前(まん)より学があるぞ。それに殿様に似合わず弁はお前より立つお人じゃぞ。その上、異骨相(いごっそう)で、人のいうことなぞきかんお人じゃ。武市、最後に忠告するが」
「おお、何でもいえ」
「こんな土佐藩をすてろ。捨てて脱藩せい」
「脱藩」
武市は、ぎょろりと竜馬をみた。
「竜馬ァ、お前、まさか脱藩するんじゃあるまいな」
「いや、せん」
竜馬は、急に唄をうたいはじめた。

(続く)