坂本龍馬脱藩の道をたどる【2】

 『維新土佐勤王史』によると、龍馬は3月24日の夜、澤村と共に高知城下を出た。のちに武市は人に「龍馬は土佐の国に余る奴なれば、広い所へ追い放ちたり」と語ったという。

 翌日、2人は梼原村の那須信吾を訪ねて一泊している。龍馬と那須信吾は日根野道場時代からの顔見知りで、土佐勤王党の同志でもある。那須邸で3人は一晩語り明かした。

坂本家の屋敷神を祀る和霊神社
脱藩前に龍馬が参拝したとされる

 吉田東洋暗殺は、龍馬が脱藩してから間もない4月8日の夜に実行された。那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の刺客3人は、東洋が城内二の丸で藩主豊範のために『日本外史』を講義した帰りを帯屋町の自宅近くで待ち伏せしていた。藩主豊範は近く江戸に出立するため、東洋の講義はこの時が最終回であった。その題目が「本能寺の変」であったのは皮肉である。

 東洋の首は、西の外れにある観音堂に運ばれ、別の同志に渡して、雁切河原(現在は紅葉橋付近)の高札場に斬奸状とともに晒された。斬奸状には、下手人を推測させないよう、佐幕勤王などの文言は一切なく、賄賂をむさぼり、驕っていたという罪状だけが書かれていた。城下の士民からは東洋の惨死を悲しむ声はなく、快哉が叫ばれたという。開国以後、物価が高騰して士民が困窮している時期に、大邸宅を新築したことも評判を落としたようだ。


帯屋町・追手前小学校の一角にある
『吉田東洋先生記念之地』碑


 暗殺の現場になった帯屋町の一角は、連日見物の野次馬でにぎわい、こんな狂句まで詠まれた。

 「料理した血を見にくるや初松魚(かつお)」

 ちなみに、土佐の鰹は、毎年4月8日の釈迦誕生節が旬といわれていた。



(続く)