坂本龍馬脱藩の道をたどる【3】

脱藩の道の途中に流れる仁淀川

 吉田東洋を暗殺した3人は、ただちに脱藩した。『流離譚』(安岡章太郎著)によると、3人は伊予の岩川まで30里もの山道を、時速8キロという驚異的な速さで踏破した。リーダーの那須信吾は、「馬より速い」といわれた偉丈夫である。しかし、3人は龍馬のように梼原を通らず、横倉から仁淀川沿いに進み、岩川へ抜ける道を選んだ。

 梼原を通らなかったのは、那須信吾の家族に累が及ぶことを恐れたためといわれている。信吾は梼原村に妻と幼子、養父俊平を残している。信吾は、暗殺のことを養父には黙って高知に出てきたのである。当時、信吾は武市半平太と同じ34歳。幸せな家族との生活を捨て、断腸の思いで高知を去ったことであろう。

 後に信吾は、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた時、やはり脱藩してきた中平保太郎から「妻子のことは露ばかりも心にかけず、更に奮って一命を天皇の御為に捧げまつれよ」という俊平からの伝言を受け取っている(『流離譚』)。その言葉の通り信吾は文久3年8月天誅組に参加、奈良東吉野村の鷲家口の戦いで、大将中山忠光を逃がすために決死隊を率い、壮絶な戦死を遂げている。

津野町の吉村虎太郎像
辞世の句は「吉野山風に乱るるもみじ葉は
我が打つ太刀の血煙と見よ」

 信吾の死を知った俊平の落胆は、想像にあまりある。自分の道場の後継者として養子に迎えた信吾が突然失踪し、その後一度も言葉を交わすことなく永久の別れとなった。残された娘為代と2人の幼子を見るたびに、悲しみに打ちひしがれていたはずである。

 俊平は57歳。当時とすればかなりの老齢である。普通の老人なら、今は亡き息子を偲び、残された孫をせめてもの慰みに見守って余生を過ごすことだろう。

 ところが、俊平は違っていた。自ら志願して土佐勤王党に入り、翌元治元年6月には脱藩して長州の忠勇隊に入った。

 同年7月の禁門の変では、浪士らの義勇兵で組織された忠勇隊に、多くの土佐脱藩浪士が参加している。俊平は伍長に任命され部隊を指揮した。

 19日、真木和泉、久坂玄瑞が率いる忠勇隊約300人は、布陣していた山崎から松原通、柳馬場通を経て堺町門に進撃、門を守る越前兵との間で激しい戦闘になった。

 一番槍で突撃したのは土佐勤王党の脱藩浪士尾崎幸之進。二番手に俊平が続いた。幸之進は俊平を振り返って「これ我輩のよき死所ぞ」と言ったという(『維新土佐勤王史』)。その直後、幸之進は敵中に突入して討ち死にした。

 最前線に立った俊平は「土佐一の達人」といわれた槍を繰り出して奮戦するが、溝に足をとられたところを越前藩士・堤五一郎に仕留められた。乱戦の中、戦いの様子や討ち取った藩士の名前まで記録されていることを考えると、俊平は戦場でよほどの活躍をしたものと想像される。

(右から)掛橋和泉、中平龍之助、
吉村虎太郎、那須信吾、前田繁馬

梼原町「維新の門」の銅像
(右から)那須俊平、龍馬、澤村惣之丞

龍馬が泊まった那須邸の跡地

 梼原村には、龍馬や地元出身の幕末の志士の群像「維新の門」がある。

 向かって右手には、脱藩する龍馬らの一行が描かれている。先導する那須俊平は伊予への道を指し示している。

 左は那須信吾を先頭に吉村虎太郎、前田繁馬の3人が台座に乗っている。いずれも土佐を脱藩したあと、天誅組の変で戦死した。

 一段低いところで、今にも刀を抜こうと身構えているのは中平龍之助。禁門の変では忠勇隊の一員として戦い、鷹司邸から突撃する際に討ち死にした。

 後方で一人祈っているのは神官の掛橋和泉である。勤王の志士たちに家財を費やして援助していたことが義母にとがめられ、小銃で自決した。

 維新の門に描かれた人々は、全員が明治維新の前に志半ばにして落命している。



(続く)